「蛤御門」と「猿ヶ辻」

「蛤御門(はまぐりごもん)」は、京都御苑の西側にあります。蛤御門は烏丸通に面した門で、かつては「新在家門」と呼ばれていました。普段は閉ざされている禁門でしたが、宝永5年の大火で開門されたので「焼けて身をあく蛤」から「蛤御門」と呼ばれたと伝えられてます。

幕末期の1864年8月20日(元治元年7月19日)。京都政局での形勢挽回を狙う長州藩は挙兵して天皇への強訴を図り、それを阻止しようとする幕軍が京都蛤御門で衝突、後に「蛤御門の変(禁門の変)」と呼ばれる戦いが勃発しました。長州兵は中立売門も突破して京都御所内まで進入しましたが、西郷隆盛が率いる薩摩兵が幕府側援軍として駆けつけると一気に形勢が逆転、長州兵は敗走しました。戦いの中で追い詰めたら来島又兵衛、入江九一、寺島忠三郎、久坂玄瑞が自刃して果てた。

戦場から落ち延びた長州兵たちは長州藩屋敷に火を放って逃走。さらに会津兵が長州藩士の隠れていた堺町御門付近を集中攻撃したため、この二箇所から火元となり京都市街地一帯が「どんどん焼け(鉄砲焼け)」と呼ばれる大火に見舞われました。北は一条通から南は七条の東本願寺までの広範囲で約2万7000世帯が焼失してしまいました。町衆主導で行われてきた祇園祭は翌年中止、翌々年には復活しましたがその規模は縮小されました。その3年後に東京遷都が行われると、京都市街はいっそう衰退していきました。

「蛤御門」には現在も当時の戦いの激しさを物語るように長州兵の撃ったと思われる弾痕がいたる所に残されています。

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そして京都御苑北東には「猿ヶ辻」と呼ばれる堀が内側に凹んだ角があります。陰陽道において北東(艮:ウシトラ)」は「鬼門」とされ災が入ってくる方角とされていました。そのため角を凹ませて無くし、さらに比叡山日吉大社の御使いとされる申(サル)を祀ることで厄除けにしています。この木彫りのサルが夜毎に抜けだして悪戯を繰り返すので、金網で閉じ込めたとされています。

幕末期の1863年7月5日(文久3年5月20日)の深夜未明。尊皇攘夷派の急先鋒だった公卿 姉小路公知(右近衛少将、国事参政)がこの辻で何者かに暗殺されました。薩摩藩士の田中新兵衛が犯人として捕縛されましたが、田中は取り調べ中に自殺したため真相は闇へ葬られました。この「猿ヶ辻の変(朔平門外の変)」によって、薩摩藩は御所九門の警護役を解任されましたが、上記したように翌年に勃発した「蛤御門の変」の際には、幕府援軍として御所に駆けつけ長州兵を退ける活躍をしています。

当時の関係勢力の背景や政治情勢が複雑なため、現在もこの事件の真犯人については諸説あります。犯人はサルだけが知っている。この事件をきっかけとして長州勢力が京都政局で失脚することになり、後の「蛤御門の変」へとつながり、さらには薩長同盟へと歴史のモーメントがはっきりと定まっていきます。俯瞰で日本の歴史を見ると、この「猿ヶ辻」で起きた暗殺事件が日本の進む方向を大きく変えた「歴史の辻」であったと感じます。

歴史を知ると京都観光は10倍たのしくなりますよ。

京都御苑
住所:〒602-0881 京都府京都市上京区京都御苑3
ホームページ:http://www.env.go.jp/garden/kyotogyoen/index.html
入場料:無料