本能寺の変から430年、阿弥陀寺「信長忌」

阿弥陀寺では毎年6月2日の「信長忌」に本堂を公開しています。信長と信忠の木像を拝観することができ、法要後の講演会には信長に関する本を書いた加藤寛や安部龍太郎などの作家が呼ばれて講話をしています。今年も滞りなく営まれました。

織田信長(1534~1582)は、日本人なら誰もが知っている戦国時代の英傑です。大胆かつ型破りな軍事戦略、現代経済学者も驚く市場政策、泣く子も黙る独裁的な政治手腕。身分の上下無く才能を重用する人事。そして「泣かぬなら殺してしまえホトトギス」とその烈火のごとき性格を後世で詠まれ、魔王として恐れられた一面も持つ信長ですが、今なお多くの人々に慕われ崇拝される存在です。信長に対する現代人の持つイメージというのは、山岡荘八『織田信長』、吉川英治『新書太閤記』、司馬遼太郎『国盗り物語』、などの歴史小説の影響が大きいだろうと思います。

時は1582年。当時の貴族の日記によると、「本能寺の変」の第一報を聞いた阿弥陀寺の清玉上人は、門弟を率いて本能寺に駆けつけたが時既に遅し。信長は自刃した後でした。明智光秀の軍勢から信長の遺体を守るために、清玉上人は織田家臣たちと協力して信長の遺体をその場で火葬し、本能寺の僧に紛れて無事に遺骨を阿弥陀寺へ持ち帰ります。さらに翌日に二条城で討死にした織田信忠や家臣の遺骸百十余名を集め、全員に法名を授与し埋葬しました。なので、本能寺で討死にした森蘭丸、森力丸、森坊丸ら森三兄弟の墓も阿弥陀寺にあります。


(写真の左が信長、右が信忠)

その後、豊臣秀吉(当時は羽柴)は分骨を求めらたが、清玉上人は断固として拒否。やむおえず秀吉は木像を火葬して大徳寺に別の墓を作りました。秀吉の怒りを買った阿弥陀寺は、1590年に蓮台野から現在の場所に転地させられ、寺地も8割近く小さくさせられてしまったそうです。鴨川沿いにある寺町通の寺社は、秀吉の命令でここに転地させられた寺社が阿弥陀寺以外にも数多くあり、おそらくは鴨川が氾濫した際の堤防の役割を無理矢理に押し付けられたのではないかと考えられます。

それにしても、清玉上人が何故ここまで危険を冒してまで信長の遺体を守ったのでしょうか。それは仏心からではなく、織田家が彼にとって命の恩人だからです。織田信秀(信長の父)が尾張行軍中に、まだ赤子だった清玉上人を拾い、彼が13歳で南都興福寺に入るまでずっと織田家で育てられたのだそうだ。おそらく清玉上人はその恩義に報いたかったのでしょう、あるいは信長を兄弟同然に感じていたのかもしれません。

ちなみに本能寺の変が起こった旧暦の6月2日は現在のグレゴリオ暦に換算すると7月1日です。「信長忌」は旧暦で6月2日に営まれていますが、新暦だと7月1日が430回忌の当日になります。

阿弥陀寺「信長忌」
開催日:毎年6月2日
本堂拝観冥加料:1000円
住所:京都府京都市上京区寺町通今出川上る二丁目鶴山町14
電話:075-231-3538 ‎

建勲神社「船岡大祭」

織田信長公を祀った「建勲神社(たけいさおじんじゃ)」では、毎年10月19日に信長が初めて入洛した日を記念して「船岡大祭」が行われます。白木造りの大鳥居をくぐり、境内にある100段もある大きめの石段を苦労して登ると、ようやく社務所があり、そのさらに上に拝殿が見えます。

船岡大祭では3〜5年に1度だけですが、境内石段からの「火縄銃三段打奉納」も行われます。古式炮術流儀保存会による古式甲冑を着た鉄砲隊の火縄銃が火を噴くたびに、境内に轟音が響き硝煙が充満する様子はド迫力らしいです。残念ながら今年は行われませんでした。前々回は2006年、前回は2009年に実射奉納が行われたので、次の実射奉納が予定されているのは2012年です。

今年は本殿に供物が捧げられた後に、拝殿で信長が桶狭間の合戦に赴く前に舞ったとされる『敦盛』の仕舞が奉納されました。

「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」

(この世での50年は天界の1日にしかあたらない。
 この世に生を受けて、死なない者などいない)

次に二人の少女による『胡蝶舞』が奉納されます。この舞は鷺森神社の「鷺森祭」や車折神社の「三船祭」などの神社大祭で奉納されている舞です。鮮やかな蝶の羽を背負ってゆったりと可憐に舞います。祇園祭で奉納される「子鷺踊り」にも雰囲気が少し似ています。

舞が奉納された拝殿には織田信長公三十六功臣の肖像画が飾られています。スペースの都合で全員は飾られていませんが、国立国会図書館のデジタルアーカイブで『信長公功臣三十六名肖像 拝殿額面』を閲覧することができます。

 その他の写真:WEB京都写真集「建勲神社・船岡大祭

建勲神社
住所:京都府京都市北区紫野北舟岡町49
ホームページ:なし